

なんか公式が解釈違い起こしててツラいんだけど……

公式が解釈違いしてる。このキャラはそんなこと言わないでしょ。
ネット・SNS界隈(かいわい)でマンガ・アニメ・小説・映画などの作品において、『解釈違い』という言葉を使われる場合があるんですね。
- 【解釈違い】公式作品の設定・性格に対して、ファンが公式相手に批難すること。
- 【解釈違い】二次創作をしたファンと、読んだファンの間で認識が違うこと。
- 【解釈違い】考察の上で公式設定の解釈が、ファン同士で認識が異なること。
ファンの中でも相当熱心な、いわゆる『厄介オタク』とよばれる人ほど、ネタ・本気問わず使いがちな傾向が見られます。
2と3はファン同士のコミュニケーションですが、この記事で問題提起するのは公式相手に言ってしまう「1」の行為になり、
- 公式に解釈違いと使うべきではない理由
- なぜうざいと思われてしまうのか
- 公式とファンの適切な関係
上記の話を以下から述べていきます。
2はファン創作で気に入らないなら離れたらいいし、3も作品愛で白熱するのはいいけど、公式や相手の敬意を忘れてはいけない。

個人の見解です
ほかの意見もご参照ください
「公式が解釈違い」はうざい?


好きな気持ちは
伝わるものの……

願望どおりじゃないと「公式が解釈違い」と言う厄介オタク。言葉悪いけど何様のつもりだ。

「公式の解釈が違う」ってさ、「私は気に食わない」を評論家風にそれっぽく言っただけでは?
そもそも解釈違いは「公式相手」に使う言葉ではありません。それはファンのほうが力関係が上で開発者が下だと言っているようなもので、ある種のごう慢さを感じさせるものです。
中には深く考えず、ネット・SNSの風潮に流されて使う人もいるでしょうけれど、本質を見て考えれば、悪質クレーマーが店員に向かってお客様は神様を振りかざすのと同じ行動原理なんですね。
個人的に恥ずかしいのが、書く前に調べないで「解釈違い」と言ってしまうパターン。リテラシーが低いことを自白するようなもの。

元は腐女子用語だった
こちらの解説記事によると、言う言わないはともかくとして、本来は二次創作におけるファン(腐女子)同士の同人用語だったとされます。
とはいえ似たような話は昔からあり、『キン肉マン』のゆでたまご先生も矛盾点が多い作風から、連載時からファンからそれこそ解釈違いだと言われ続けていたようです。
ゆでたまご先生の件は本人たちも認めている「公式ネタ」のような状態なのでアレですが、ほかの権利元の大半はそうではないですよね。
「解釈違い」がオタク全般用語になってしまった|はてなブログ
Z世代が推し活で大切にする「解釈一致」とは VTuberマーケの鍵(有料記事)|日経クロストレンド
ゆでたまご|Wikipedia
願望の話と構成の話は違う


問題の本質を
見極める
個人の願望・妄想と公式発表や設定が違うからって、公式相手に解釈違いと称するのは、重ねるように消費者側のごう慢にしかなりません。
一方で長期連載やシリーズ、メディアミックス展開だと、設定変更や後付け設定・オリジナル描写で補完されるケースだと、ズレ・改変が起きてしまうこともあります。
その場合は「解釈違い」と言うのではなく、
- 公式に敬意を持っているか
- 批判と批難を混同していないか
- 願望の話と構成の話は切り分けているか
公式に感謝しつつも上記を踏まえ、ロジカル(建設的)に「自分の意見」を述べるものでしょう。
「公式が解釈違い」を使う人がうざいと嫌悪感を抱かれるのは、公式への敬意がなく、ファンのほうが権力があり立場が上だと勘違いする思い上がりが見え隠れしているためです。
記事で一番言いたいのはここ。「公式が解釈違い」って言葉自体、公式に敬意を払っていないから言えてしまう表現じゃないのかな?

意見を許さないのも問題

公式が絶対正義だから受け入れるべき。公式のやりかたに文句あるなら卒業してファンやめろよ。
公式相手に言う態度が失礼なのは先に説明したものの、これもこれで極端な思考なんですね。
原則として公式が「正」であるのは前提として、その上でちゃんと敬意・エビデンス(論拠)を踏まえて適切に意見を述べる姿勢もまた必要です。
その姿勢までも拒否してしまうと、公式は適切なフィードバックを失うことになってしまいます。
思考を停止させる言葉


敬意は
考える力をはぐくむ
「公式が解釈違い」は敬意に欠く行為と説明しました。しかしそれだけではなく、結果として考える力を奪ってしまう言葉(行為)にもなるんですね。
敬意とは思いやりが前提で成り立つため、本当に敬意があればスラングに頼らず多角的に調べ、正しくコンテンツを評価しようと動くものです。
- 「もしかしたら自分の思い込みで、本来はこうだったかもしれない」
- 「『こうだった』ではなく『こうなってほしかった』の間違いではないか」
- 「この描写は知らない部分があるのかもしれないから調べよう」
度が過ぎると独自研究になるものの、「本当に公式が問題なのか」「自分自身の思い込みではないか」と、一旦立ち止まって考えたり見直せるんですね。それがロジカルに考えることです。
一方で「公式が解釈違い」では、それで思考が終わってしまいます。公式に失礼だし、生産性がないし、勘違いのまま恥をかくし、妄想を振りまいているだけと、百害あって一利なしです。
最後に:スラングは「意見した気になる」もの


好きだからこそ
敬意は払うもの
大ファンの人、オタクの人がシリーズ作品やアニメ化作品を観て「解釈違い」と言ってしまうのは、それだけ好きの裏返しであることは伝わります。
しかしネット・SNSの世界には『厄介オタク』というスラングがあるように、公式への敬意のない発言・行為はただのクレーマーでしかなく、好きだったらなおのこと敬意を払うべきなんですね。
公式よりファンがえらい?

公式よりファンのほうが立場が上でしょ。

公式はファンの願望を叶えるのが当たり前だ。
公式相手に「解釈違い」とは、本気だろうがネタだろうが思慮深い主張とは言いがたいものです。
「公式が解釈違い」を言った時点で、公式に敬意を払わず、ファンのほうが上と勘違いで思い上がるごう慢さを自己紹介しているようなものでしょう。
オタクの評論家気取りが嫌われるのも本質的に同じで、「敬意がなくロジカルではない」からです。悪質クレーマーと発想が同じなんですね。
「好きだから」を盾にすれば、公式に何言っても許されると思っている人もいるよね。

意思表示ができる便利な言葉たち
ちなみに解釈違いというスラングのみならず、
- お気持ち
- コレジャナイ
- 主語が大きい
- 人それぞれ
などのように、世の中には簡単に使えて要約できる便利な言葉は多々あるものです。しかしそれは「本質を見ていない、意見した気になっているだけ」な見せかけの言葉なんですね。
これを言うと「言葉狩り」「好きだから声をあげている」と反論するでしょうが、本当に敬意があるなら出てこない言葉です。風潮に流されて言っていたのであれば見直したほうがいいでしょう。
スラングはときに便利である一方で思考を停止させかねない、危うい言葉でもあります。
敬意があればスラングを使わず多角的に調べる意識が出てきますが、「解釈違いだから」では思考がそこで終わってしまいます。
スラングに頼ってしまうと客観視できず本質をくもらせてしまい、思い込みも脱却できません。

0か100で考えてはいけない

じゃあ公式のものは一切文句言わず受け入れて称賛しろってこと?
一方で公式が供給するものはすべて受け入れて称賛しろと言うのは、それはそれで極端な考えです。物事を0か100で語るものではありません。
大切なのは繰り返すように、公式に敬意を払った上でロジカルに行動する姿勢そのものです。
「公式が解釈違い」と、ただの定型文で文句・悪口を言うだけという、そのような生産性のない独りよがりでコンテンツは育つのでしょうか?
良いレビューとは何かを解説した記事とつながる話で、正しい批評(建設的批判)は需要側・供給側によりよい効果をもたらします。その相互作用でコンテンツは育っていくんですね。

「厄介オタクだから」は免罪符

しょせんは厄介オタクのグチだしお気持ちだよ。
「厄介オタクのグチ」と開き直るのは反省していないからです。むしろ心が弱い人(=自省せず逃げて向き合えない人)と認めているし、「好きだから」は免罪(めんざい)符になりません。
もし周りに流されて「公式が解釈違い」と言っていたのなら重ねるように、今一度見直していただきたいもので、それだけ自分の価値を下げる行為でしかないのは、留意いただければと思います。
流されて言っていた、公式の敬意に欠いていたのなら、素直に反省して今後気をつければいいだけ。反省しないことが一番の問題。





