
「他人に厳しく自分に甘い人」は論外として、「自分にも他人にも厳しい人」は人によって意見が分かれる姿勢なんですね。
中には自分を苦しめるだけでしかないと説いたり、コンプレックスを抱く人もいるほどです。

自分に厳しく他人にも厳しいのは不幸になる考えかた。

自分にも他人にも厳しくなることがしんどくてやめたい。
しかし世間やネット・SNSで述べられているこの話は、ちゃんと前提定義が設けられないまま話が進んでいるパターンが非常に多いですね。
明確に前提定義せず「自分にも他人にも厳しいのはダメ」と論ずるのは、危ない考えかたです。
- 「厳しさ」を前提定義することの重要性
- 自分にも他人にも厳しい人は成立するか
- 本当に厳しい人は「優しい人」である
上記を述べつつ本質を探っていきましょう。
個人の見解です
ほかの意見もご参照ください
「厳しい」は曖昧で広すぎる表現


なんの「厳しい」なの?
「自分にも他人にも厳しい人」における話の問題点は、「メンタル・心の話」と「人間関係・市場価値の話」を混同していることにあります。
「厳しい」とは主観的・客観的要素が混在し、曖昧(あいまい)で広すぎる表現のため、どの「厳しい」かを定義しないと平行線になりかねません。

え? 私はかなりストイックな性格で、生産性を上げるために周囲にも厳しく接するよ?

努力を無駄だとあざ笑う、甘えてばかりの人間が厳しく言われるのはむしろ当然では?
そこを定義しないまま話を進めるから、どんどん話がこじれてしまいます。
メンタル・心における考えかた
- ルール重視する完璧主義者で相手にも強要
- 自分自身を許せないから相手も許せない
- 相手に自分の過去を自己投影しているだけ
メンタル・心の問題として語る場合、自己肯定感が低い人ほど厳しい物言いをするという、当人の心の問題として扱われています。
自省せず他人に当たり散らすのは、ただの迷惑行為で自分の心と向き合っていません。「『自分に厳しい』の皮をかぶった自分に甘い人」なんですね。
ゆえに彼らの厳しさは、相手を否定するだけの理不尽・パワハラ的な物言いになります。
「自分を許し、他人に優しくなろう」の意味合いで、厳しさの問題を提起する場合の「自分にも他人にも厳しいはダメ」は、一理ある主張でしょう。
コラムニストやメンタルクリニックの医療従事者は、こちらの定義で語っていることが多いです。

他人に厳しい人ってたいてい自分に甘いのよ。
— 精神科医Tomy (@PdoctorTomy) June 13, 2023
自分に厳しければ、畏れ多くて他人に意見などできないでしょうから。
他人にも厳しく、自分にも厳しいなんて人は幻想ね。
生産性・市場価値での考えかた
- 組織の生産性を上げるため質を上げる
- その人の市場価値向上を促すため
- 問題を熟考させるため厳しく振る舞う
一方で生産性・市場価値の話における「自分にも他人にも厳しい」は異なります。
組織・仕事においては優しく言うだけでは危機感・リスクヘッジを覚えないし、行動力・生産性も上がらず信用問題にもつながります。
大企業なら人海戦術でカバーできるにしても、中小・零細・個人事業主はそうも言っていられません。生産性・市場価値を高めるならば、自他ともに厳しくならざるをえないでしょう。

世の中に成果を出せている人や組織ほど、自省を必ずやる。他責しているようでは問題は解決しない。

他人のせいにする、甘えている、努力しない人には厳しいよ。不利益をこうむるし信頼も関わる。
有能な人材や経営者ほど、自分にも他人にも厳しいです。なぜなら自省・改善を重要視するからで、この姿勢は結果的に厳しさと直結します。
「自他ともに厳しい人は自己肯定感が低い完璧主義者」と世間で言われるものの、彼らはむしろ自己肯定感が高く、完璧を重視しません。
彼らの厳しさとは、自己研鑽(けんさん)・切磋琢磨(せっさたくま)するからこそです。
成長の価値なし・生産性を下げると判断されたら厳しくもされず放置されますし、その姿勢についていけない人が、「自分にも他人にも厳しい人」に苦言している可能性もありますね。
当記事の「厳しい」は、こちらの定義で述べている形になります。

何かを成すには、評論ではなく自省と行動する能力がより重要|C-M-P株式会社
成長する人ほど「自分に厳しい人を大事している」|東洋経済オンライン
「自分に厳しく他人に優しい」ほど厳しい


優しさの中に
厳しさ
「自分に厳しく他人に優しい人」は人格者のように扱われますが、本当に優しい人ほど厳しいです。
彼らの優しさは「聖人のような慈悲の優しさ」ではなく、「努力を見守る優しさ」です。
- 相手のためにならない場合は注意を促す
- 間違った道を進んだ場合は叱る
- 改善しない人は何も言わず見捨てる
注意・叱る行為にも優しさは現れていて、厳しく言うことはあっても全否定したり、パワハラのような威圧的にならないように留意しています。
相手をおとしめるのではなく、重ねるように努力を見守っているから「優しい」んですね。
他人に優しく自分に厳しい人が、幼少期に習慣化していた「親への気遣い」|PHPオンライン
ほんとに優しい人は厳しさや冷酷さもある|note
「優しい人は厳しい人である」2021/10/14(木)|株式会社和高組
優しさはいちばんの厳しさだ | フクロウのひとりごと
「甘やかす」と「見守る」は別物

自分が厳しくされていたから、優しくするようにしている。
上記の場合、それはそれで素晴らしい姿勢である一方、「甘やかす」と「見守る」は別物です。
甘やかすのは相手のためにはならないし、成長機会・チャンスを奪う行為にもなりかねません。
- 人に嫌われるのが怖いから
- むやみに敵を作りたくないから
- 面倒事を増やしたくないから
その優しさの根底に上記の考えが見え隠れしていないかも含め、見極めるようにしましょう。
自他に厳しい人の考えかた


実践者の
考えかた
自分自身が「自分にも他人にも厳しい人」であり、ひとくくりに「自他ともに厳しいのは自分を苦しめるだけ」と雄弁に語る論調に違和感を覚えます。
繰り返すように、「メンタル・心の話」と「生産性・市場価値の話」は別物だからです。
すでに大まかな部分は先述しているものの、自分自身がどう「自分にも他人にも厳しい人」を実現しているのかを、以下から述べていきましょう。
ゆえに自分を性格が悪いと嫌う人もいると思う。ただ意識改善のきっかけになるならそれでいい。

個人の質を高めるため
執筆の論調としては、「厳しくも掘り下げて、ていねいに書く」を心がけています。自分の記事をはじめて読んだ人はズバズバした物言いや、皮肉めいた言いかたに身構えてしまうかもしれません。
これは「自分がやってきたからキミたちも同じようにやれ」でも、叩きたいからでもありません。
CHECK!
厳しい論調や皮肉めいた言いかたは、リテラシーを高める重要性を理解してもらうため。個人の質を高めれば、それだけ物事を述べる行為に生産性が上がり、無用な口喧嘩・バッシング・マウント合戦や風評被害を極力減らせます。
他人が言っていた、評価が多いなどの他人軸依存で中身が伴っていなければ、健全な意見交換は難しく、結果的に恥をかくのは自分自身でしょう。
意見交換の本質は「双方の成長」です。実現には一人ひとりのリテラシーを高めないといけません。
それに気づいてもらうため、あえて厳しく言ったり皮肉を言う。意図してやっているんだよ。

自分で考えることの重要性
問題が深刻なほど厳しい物言いが多い。でも言っていることの軸はブレていないとわかると思う。

当サイトの解説記事は多くの問題を厳しく述べているものの、言っている部分の軸は同じです。なぜなら根底が共通しているからです。
- 「他人の意見で知ったかぶる意識高い系になるな。ちゃんと意識高いになれ」
- 「用意された答えを見て理解した気にならず、『なぜ(Why)』を突き詰めよう」
- 「物事を0と100で考えるな。白黒だけで考えるのはただの思考停止である」
- 「リテラシーと本質を見る意識は重要。これらができていないとブレる」
- 「他人軸依存は日本の学校教育も要因。しかし甘んじずちゃんと行動しよう」
- 「主語が大きい・人それぞれだと言っているのは、問題解決能力が低いからだ」
- 「批判は悪いことではない。本来の批判とは建設的な批評行為になる」
- 「有能な人は自省するが、無能な人は他責する。他責しているようではダメ」
自分で考えるきっかけを与えるために厳しく書いて問題提起し、当サイトの全体執筆テーマは、「自分で考えて意見を持つこと」にあります。
また読者は2本以上の記事を読んでいただけるとは限りません。1つの記事でサヨナラのほうが多いため、単発で話を極力完結させています。
自分の別記事を読んだら同じことばかり書いていてワンパターンと思われるかもしれませんが、根底はほとんど一緒だから似た結論になります。
最後に決めるのは相手自身
そして自他ともに厳しくする姿勢において、「強要するのではなく、その人の意思に任せる」は忘れてはいけない重要項目です。
「自分で考えること」が重要であるため、強要しては意味がありません。むしろ自分の都合で相手を変えようとするのは、とてもごう慢な行為です。
自分を変えられるのは自分だけです。生きかたを決める決定権は、その人にしかありません。
参考にするのも、受け入れないのも個人の自由意志です。しかし選択を選んだからには、他責せずしっかり覚悟するようにしてください。
最後に:どの「厳しい」なのか


自分にも他人にも厳しいは
成立する

そんなに厳しく当たるなら、自分ひとりで全部やればいいじゃん。

他人に厳しく自分に厳しいは幻想。そんな人はいないよ。

自分自身を許せていないから。自己肯定感が低いんです。
自分にも他人にも厳しい人の話になると、このような孤立した人間の話になったり、自分を苦しめるだけだと説かれがちです。
しかし「厳しい」という言葉は意味があまりにも広いため、ちゃんと定義しないといけません。
- 自己肯定感が低い「本人問題の厳しさ」
- 他人に自己投影した「迷惑な厳しさ」
- 生産性を見直すための「改善の厳しさ」
- 個人の市場価値を高める「研鑽の厳しさ」
「メンタル・心」における厳しさと説くのか、「生産性・市場価値」の厳しさを説くかで話が変わります。この記事で述べているのは後者ですね。
前提定義をしないから、ただ理不尽に怒鳴り散らすだけの「他人に厳しく自分に甘い人」の話と混同し、自分も他人も不幸にする考えかただとか、パワハラ案件だと軸がゆらぐんですね。
自己肯定感が低く、ルール厳守を正義だと他者に自己投影する人の場合、自分の心と向き合っていない「厳しいの皮をかぶった自分に甘い人」です。
生産性や市場価値の観点における厳しさの場合、自省・改善を重要視するため厳しくなるのです。
ちゃんと前提定義せず書き進めている記事・投稿が本当に多くて驚く。頭がハテナでしかない。

実現するのは至難の業

自分にも他人にも厳しい人って、完璧主義者で自分が許せないから他人に厳しい人なの?
それは「厳しい」の皮をかぶった自分に甘い人。本当に厳しい人は完璧を重視せず自己肯定感も高い。

- 「自分に厳しい理由」
→ 自省して自分軸で動くため。 - 「他人に厳しい理由」
→ 自分で考える重要性を説くため。
自分自身が「自分にも他人にも厳しい」人間のため、上記意図から当サイトの解説記事では深刻な問題ほど、意図的に厳しく書きます。
自分にも他人にも厳しいとは、しっかり見据えて動かないとブレるし、その厳しさを自分自身が実行して示さないといけないし、嫌われる勇気を持たなければならないなど、相当イバラの道です。
当サイトの解説記事を読んだことがある人ならわかるように、厳しいけど掘り下げて、ていねいに書く意識・スタンスを心がけています。
自分が自他ともに厳しい姿勢をとるのは、「リテラシーを高めて本質を見た、自分で考えた自分の意見を持つこと」の重要性を説いているからです。
しかし日本人は和を重視し根底を突く行為は好まないため、この「厳しさ」は否定されがちです。
ののしるのが目的ではなく、考えることが目的ですからね。

そして厳しさは説きますが、結果的にどうするのかはその人自身の選択です。
行動の強制はただのごう慢でしかなく、参考にするのか受け入れないかは彼らの人生なので、「自分の選択に責任を持て」としか言えないでしょう。
あえて厳しい物言いをするなら、「その人がどうなろうが知ったこっちゃない」んですよ。責任放棄という意味ではなく、「その人の生きかたを決める決定権は、その人にしかないから」です。
優しい人ほど厳しい

人間ができている人は、「自分に厳しく他人に優しい」と思うけど。
「甘やかす」の意味なら、そうは思わない。優しい人ほど厳しいよ。

その上位互換が「自分に厳しく他人に優しい」人になり、一見すると人としての理想像・人格者に見えるでしょうけれど、他人に優しいとは「聖人のように慈悲があり優しい」ではありません。
その優しさは「成長を見守る優しさ」で、努力放棄する人には「その人が選んだ人生」と関与しない、間違った行動なら諭す厳しさがあるんですね。
「甘やかす」と「見守る」は別物です。自分には厳しく他人は甘やかす優しい人は、嫌われたくないか面倒事を恐れ、敵を作りたくないだけでしょう。
重ねるように、自分にも他人にも厳しい人は成立しますし、自分自身がまさにそうです。
その厳しいは「どの厳しさ」をさすのか、明確に前提定義をして述べるようにしてください。























