
ネット・SNSや一部の当事者・団体・自治体で、「自殺」を「自死」と呼び、「障害者」を「障碍者・障がい者」と表記するのを、見たことや疑問に思った人も多いと思います。
この問題は非常にデリケートで、さまざまな意見がありますから、「これは正しい・それは間違っている」と一概に言えない部分はあります。
ゆえに、当記事はこちらの見解と一意見として参考にしていただければ幸いですし、当事者などを全否定する意図はなく、純粋な疑問であることをあらかじめお断りしておきます。
個人の見解です
ほかの意見もご参照ください
表記・呼称問題の個人的見解


個人的な見解です
結論としては、
いくら言葉遊びのように変えようが、問題意識や実態の解決になっておらず、むしろ遠のいている過度な配慮。

冒頭で述べたようにさまざまな意見があることを前置きした上で、「あえて自分はこう思う」という個人的見解です。
当サイトの記事では類語の使用はあれど、一貫して「自殺」「障害者」の言葉を用いています。
ゲーム『メタルギアライジング(MGR)』で、ドクトル(ヴィルヘルム・フォークト)という作中のドイツ人科学者が、この問題を表すかのようなセリフを語っていて、
「言葉を換(か)えることで実態から目をそらす……人間の脳の優れた現実逃避能力だ」
メタルギアライジング リベンジェンス|ドクトル
自分の見解はドクトルのセリフのとおりで、ただの言葉狩りにしかなっていないと思います。
言いかたは悪いですが、当事者や配慮を求める人たちが考える・問題の解決手段が、「言葉の使いかたを変える」になっているのは、ちゃんと本質・本題に向き合っていないように思えるんですね。
ただ、施設などの場合は理不尽クレーム対策ともいえます。

「障害者の『害』が不快! 直せ!」など、難癖つけてくる人は一定数いるものだからね。残念ながら。

わかりやすい対象に矛先を向ける
「わかりやすい対象に矛先を向けて根本的要因から目をそらす」のは、2017年に起きた座間殺人事件における、遺族の人たちが犯人に向けた感情と似た部分があります。
もちろん犯人を擁護(ようご)するつもりは一切ないし、被害者遺族を叩きたいのではなく、殺された被害者たちは全員、
CHECK!
ツイッター上で自殺願望を書き込んだり、自殺幇助(ほうじょ)を求めていた人たち。「SNSで死にたいアピールのかまってちゃんはNG」など、言いたいことが多々あるのは話の軸からズレるので置いておいて、心に闇を持っていたんですよね。
- 話し相手が欲しい
- 自分と同じ境遇の人を見つけたい
情報を見る限りだと実生活で居場所がなく、心の寂しさや不安感なども原因として挙げられ、被害者家族の機能不全問題や、親のSNS教育が不十分の可能性も見え隠れしていました。
「根本的要因・要素を見ないで、わかりやすい対象に問題を全部なすりつけ、論点をうやむやにしたり、すり替えている」という意味では、今回の問題とつうずるものがあります。
「被害者・被害者家族も悪い」じゃなくて、物事の表面・結果だけを見て0か100で判断するのは本質をくもらせる趣旨だよ。

無残にも白石被告に殺害された9人の被害者は「本当に死にたかったのか」|文春オンライン
座間事件が映す「若年層の死因1位が自殺」の闇|東洋経済オンライン

言葉を変えるそもそもの意味


なぜ言葉を変えるのか
一般的に、言葉を伏せ字や類語などに変えたり、マイルドな表現に変更するというのは、
- 【現代の価値観】現代では差別的で人格否定的、不適切な言葉だから。
- 【不健全だから】過激な単語や下品、センシティブで問題になるから。
- 【適切な類語】類語が元々定義されている(伏せ字の意味合いはない)。
という、根拠がある客観的な理由があるからです。一方、「自死」や「障碍者・障がい者」は、根拠がなく主観的な主張になります。
だから言葉狩りや自己満足、現実逃避と言われがちなのでしょう。

ただ、「自死」や「障碍」の言葉自体は昔からあるそうで、「自殺」の注釈に使われるだけだったり、文部科学省は議論の余地はあるとしつつ、公文書では「障害」を使うとされます。
「自死」と言ったところで「ああ、自殺ね」と言及されるだけで、障害者手帳だって「障碍者手帳」でもなければ「障がい者手帳」でもありませんからね。
「自死」という言葉 |ことばマガジン
第3 障害者制度改革の基本的方向と今後の進め方|文部科学省
当事者の配慮か自己満足の現実逃避か


行きつく思いは同じ
以下の記事を見てもわかるように、当事者の中にも表記を変えることに疑問を抱く人は少なくないようです。
島根県の「自殺→自死」は「障害→障がい」に続く役所主導の言葉狩り?|ガジェット通信
「障害」という表記は変えるべき?残すべき?皆さんはどう思いますか?|りたりこ発達ナビ
「障がい」表記は差別の解消に有効なのか? 栗田季佳 / 教育学|SYNODOS
4番目のサイト様が掲載されている統計によれば、

言葉を変えても、当事者への態度はほとんど変わらなかった。
とのことですから、断定は早計としても、本当に意味のあることなのかと思ってしまいます。
双方の主張を大まかに分けるならば、
- 【賛成派】字面による先入観・悪印象から遠ざけて当事者を守ってあげたい。
- 【否定派】言葉を変えるだけでは根本的な解決にならないし結果は変わらない。
「目指す意識は同じ」でも、その場の「感情」で考えるのか、解決への「論理」で考えるかの違いとも言えるでしょう。

ただ賛成派の意見にも、場や状況によって使い分ける人、漢字の定義を根拠に語る人、中立的な立場の意見もあり、前者を感情的だとは言い切れない部分はあります。
否定的に書いてはいますが、賛成派の主張も理解はできますし、「人として」考えるならば、当事者感情の配慮は決して間違った行動ではありません。
しかし、その言葉尻をとる行為は本当に救済になるのかを、しっかり考えるのが当事者のためになるのではと考えています。
最後に:日本語だからこその問題


日本語は複雑
以上、「自殺」を「自死」、「障害者」を「障がい者」にするのは根本的な解決になっていない過度な配慮で、むしろ言葉狩りになりかねない思ってしまうの個人的見解でした。
一応重ねるように弁解しておきますが、この記事はこれらの言葉を使う当事者などを全否定する意図はありません。
言葉を変えるだけでは問題は解決しない。問題の実態から目をそらして向き合ってないように思え、過度な配慮で違和感を感じる。

このような純粋な疑問から生まれたものであり、それが真意です。
自分は論理的に考えるので、「目をそらしているだけ」と思いますが、賛成派の「当事者から守ってあげたい」も理解できます。
賛成派も否定派も「当事者を考えてあげる」部分、目指すところは一緒なんですね。
これらの表記問題は、ボキャブラリー(言葉の多様性)に富む日本語だからこそでしょう。
ちなみに英語でも「kotobagari」と言うらしいよ。ひらがな・カタカナ・漢字を使う日本だからこその問題なんだろうね。

海外でも「Oh My God」を「Oh My Gosh」などにする話はありますが、日本語読みがそのまま英語になるのは興味深いですね。
