R-15
雑記他

雑記

綺麗事を快く思わない人って、ネット・SNSなどを見かけると少なくない気がしますね。

中には「綺麗事の何が悪い」みたいな意見も見られますが、思うだけならまだしも、それを吹聴するような人は自分も好きではありません。なお当記事で「綺麗事」を定義しておくと、

  • 綺麗事】表面上は立派かもしれないけど、現実や実情を見ていない絵空事。


上記を意味とします。綺麗事とは相手にとってどう見えている、感じる可能性があるのかを、この記事を参考の一つにして頂ければ幸いです。

これは一個人の意見です

他の様々な意見・視点も取り入れてください。



綺麗事の具体例となぜいけないのか

さて、実生活(日本)で見かける綺麗事の一部をピックアップします。

「親には感謝し、高齢者(年長者)は敬わなければならない」
上の者を敬えという概念は、「儒教の教えによるもの説」と「社会生活で生まれた自然発生説」があるらしいですが、年齢が上な人間が果たして皆、勤勉な人格者かと言われたら、そんなワケありません。

脳の萎縮や精神疾患から様々な迷惑行為を働いたり犯罪行為を起こす、ネット・SNSで言う所のいわゆる『老害』と呼ばれる迷惑高齢者は近年増加傾向にあり、子供を一人の人間として扱わない『毒親』、虐待行為や『DV(家庭内暴力)』の報道やニュースでも珍しくなくなりましたが、取り上げられるのは氷山の一角。

20歳未満の者の構成比は,元年は52.9%(16万5,686人),15年は38.3%(14万5,448人)だったのに対し,30年は,11.6%(2万3,970人)にとどまり,20歳未満の若年齢層の比率の低下が進んでいる。他方,65歳以上の高齢者の構成比は,元年には2.1%(6,625人),15年には7.8%(2万9,804人)だったのに対し,30年は21.7%(4万4,767人)を占めており,検挙人員に占める高齢者の比率の上昇が進んでいる。

令和元年版 犯罪白書

DV検挙数が10倍超、犯罪白書 平成30年余、児童虐待も増

— MSNニュース —



もちろん素直に感謝や尊敬できる「素晴らしい人」であれば、それに越したことはありません。しかし感謝や尊敬は相手から押し付けたり強要するものではなく、己の中に自然と湧くものです。衣食住だとか戦後復興の功績の話と、人間性の話は分けて考えるべきです。

重ねるように、元から感謝出来たり敬える人格者が多ければ、これらの言葉に反発する人はいないでしょうし、定義を分けずに一つ覚えのごとく、人間性やモラルが低い相手にも「親に感謝しろ」や「高齢者は敬え」とするのは、人生の先輩を気取るだけではなく、崖から苦しむ人達の背中を押して突き落としているようなもの。

中には被害妄想を振りかざし、過剰に反応して邪険にしたがる「ワガママなだけの甘ちゃん野郎」もいるでしょうが、多くは決して甘えだとか、若さと経験不足故の青さ……というレベルでは片付けられない複雑な事情が絡んでいます。


「非常識な奴は昔から非常識。どの世代にもいる」
中高年・高齢者の『悪質クレーマー(カスタマーハラスメント:カスハラ)』問題や、迷惑行為を取り上げた話題でよく見かける常套(じょうとう)句。

詳細は以下の記事に記載していますが、若い世代のクレームと中高年・高齢者のクレームはかなり性質が違い、後者の方が遥かに厄介です。なのにも関わらず「そうゆう奴は昔から非常識ってだけ」と返すのは、サービス業未経験か、脳の老化や認知症などの後天的問題を軽く見ているレベルの人です。

その言葉、疲弊する店員や近隣住民達の心を傷つけ、さらに塩まで塗り込んでいるだけですよ?



「障害者には優しくしよう」
それ健常者だからこその傲(ごう)慢じゃない?」と感じるのはひねくれているから……?

これも過去記事で言及しているので、興味のある方は参照のこと……で、この言葉ってすごく違和感のある内容です。何故「困っている人には優しくしよう」ではなく「障害者には」と対象を絞るのか。「障害者」を「高齢者」と置き換えても同じことが言えますね。



そして勘違いをした一部の当事者やその親族がその綺麗事に甘えてしまい、「助けてもらって当たり前」「社会はもっと努力しろ」という暴挙に出る遠因の一つへとなっています。事情は理解しても、だからといって「優しくしよう」を盾にして迷惑・横暴な行為すらも許していい理屈にはなりません。


「不寛容社会だから、もっと皆が心の余裕と思いやりを持つべき」
障害者の件に通じますが、不寛容になるのって心の狭さや思いやりの無さだけが原因ではありません。

スキャンダルやニュースに対し、バッシングや中傷、特定晒し(私刑)を行なう意味の不寛容に関しては、ネット・SNSの普及で日本の同調圧力・異端者は排除する風潮が強化され、思いやりを持てない人、心の余裕がなくストレス発散が下手くそな人が、それに甘んじているのが原因なので、上述の通りになります。

しかし人間関係に対する不寛容を指す場合、寛容な心を出せば、その優しさにつけあがる人、善意を利用する人、思わぬ被害妄想や逆ギレをされて事件沙汰になるのも珍しくないのが、今の世の中です。

「困っている人には優しくしよう」は、人として善い行いですし否定はしませんが……「正直者はバカを見る」「真面目な人ほど損をする」の言葉通り、前職を辞めてから休職中の期間に、良い人(良い子ちゃん)ぶるのはやめて、合理的に判断して生きようと心に誓ったほど。

特に情緒不安定な人や発達障害を持つ人、そして認知症疑惑のある高齢者に対して、闇雲に寛容な精神を向けるのは極力やめた方が良いと助言します。偏見とかではなく、実際にものすごく苦労したことや、実生活の友人達の被害体験に相談に乗ったが故の結論です。

この「寛容の心を出すと、構うことを求められたり利用されたり、逆上する人」が少なくなく、時には厄介事に巻き込まれるご時世で、一方的に「不寛容社会だ」と言ってしまうのは、よっぽど恵まれた環境にいないと思いつかない発想ではないでしょうか?


「諦めずに努力をすれば夢は必ず叶う」
夢を叶える努力や行動は「叶える確率を上げるもの」に過ぎず、ほとんどは育った環境や支持者の存在、運命のめぐり合わせです。

役者の子供なら同じく役者として活躍できる確率は上がるし、1人の採用枠で同じ努力をした2人のどちらかを採用するなら、差異がなければ直感や多数決という名の運。両親が夢を応援してくれるのか、または全否定されているのかでも変わってきます(そのぐらい両親の存在は子供にとって大きい)。

運命という点で例えると、ピコ太郎氏が世界的に有名になったのは、地道な努力で上げつつも、たまたまジャスティン・ビーバー氏が興味を示して拡散してくれたからという、奇跡的なめぐり合わせがあったからですよね?

幸運に恵まれた、夢が叶った人もいる一方、同様に努力したのに結局夢が叶わず、違う道に進まざるを得なかった人もいる事実に目をそらし、努力すれば夢が必ず叶うというのは、ある意味、努力をした人を努力不足だと否定する無責任な言葉にもなりかねません。

誤解してほしくないのは、「どうせ無理だ」と諦めて夢から逃げるのは、チャレンジの心が無いただの臆病者です。夢を追い続けてもなお成果が見えず悩む者、初めから夢を諦めてあざ笑っている者は全然違います。努力だって別の方面で活きることだってありますからね。

「努力すれば夢は“必ず”叶う」という、保証出来ない証明を安易に掲げるのは無責任という話で、夢は地道な努力・めぐり合わせ・運で近づくもの。もし「努力し続けて長年の夢がついに叶いました」と主観的な言葉なら、多分誰も綺麗事だと文句は言わないでしょう。


「いじめ根絶! いじめを無くそう!」
大人の世界でもパワハラやセクハラ、待遇格差、差別・ヘイトといった陰湿ないじめは数多くあるのに、子供のいじめを根絶できるワケがない。

もちろん結果論として、いじめを行った加害者に罪は償わせるべきだし、いじめを肯定する気もさらさらありません。ですが、いじめる側も家庭環境など、複雑な問題が隠されている場合が多く、いじめ加害者もまた、親や親族からのいじめ被害者だった……

……なんて事態もあるのだから、「いじめはいじめる奴が100%悪い」と一方的に断罪するのも、何の根本的解決になっていません。最近は過去に壮絶ないじめ経験があったと、告白する有名人やアイドルが多くなりましたが、自分語りと「いじめする奴は最低」と言うだけでは「だから?」としか言いようがない。

仮にいじめを無くすなら、同年齢同学年制度の見直しや集団帰属・競争社会システムの排除、加害者・被害者双方の徹底した家庭環境への介入など、非現実的な課題を全てこなさないといけませんし、繰り返しますが、大人のいじめ問題すら後を絶たないのに、どうやって子供のいじめを根絶させるのか。

雄弁に語っていじめられっ子にありもしない希望と幻想を抱かせる方がよっぽど残酷。「集団社会・競争社会・縦社会である以上、いじめは起きるし、いじめは絶対に無くならない。だから発生した場合のケアや対応をしっかり考えよう」なら現実的ですし信頼できます。


「武力を捨てて話し合えば世界は平和になる」
これは色々意見が出るところで、残念ながらこちらは「勉学の機会が充実している先進国だから言える」という感想を抱きます。かといって、「世の中にはこうゆう人もいるんだから日本は恵まれている」なんて綺麗事を言うつもりもありません。日本の貧困(相対的貧困)も笑えないものになっています。

……話を戻し、もちろん発展途上国にもこういった考えはありますが、そもそも話し合いで解決できるのであれば、今世界はとっくに内戦も紛争もなく平和になっているはず。軍だって不要です。

世界には勉強や教育の機会を奪われた結果、言葉ではなく暴力に頼らざるを得ない人が住む国や、軍があるから他国に襲われるリスクが減るワケで、その価値観は「それを実感していない先進国の正義と傲慢」とも言えるもの。そして向こうからすれば、武力が正義(もしくはやむを得ない対話の手段)だと言える可能性だってあり得ます。

しかしながら、現地に赴いて見ていない自分が世界情勢を語っても説得力無いので、言えるのはこのぐらいですね。


このように吹聴する綺麗事とは、絵空事であるばかりか相手を傷つける凶器にもなります。そして、その被害に苦しむ人達がこれらを綺麗事を否定すると、「そんな当たり前のことすら分からない奴」「未熟な子供の戯言」と言わんばかりに、綺麗事のレールに従わない相手に異端的な目を向けようとしてきます。

日本では悪習でも伝統と称し、同調圧力が強い風潮があるだけにさらに肩身の狭さを強いられる部分がありましたが、最近はMeToo(私も)精神か、そうでも無くなってきたのは幸いですね。

綺麗事を並べる人の心理・対策

何故世の中には、このような現実や当事者を見ない理想論を並べ立てる人がいるのか。自身の経験や様々なサイト様の個人的見解などを集約すると、

  • プライドが高くて自己愛が強い(自分に酔っている俺かっこいい人間)
  • 上から目線(人生の先輩としてアドバイスしてやる感)
  • 否定されるのが嫌い(当たり障りのないことを言うだけの事なかれ主義)
  • 現実や実情を知らない・見ようとしない・痛みが分からない(恵まれた環境にいるが故の視野の狭さ)
  • 問題解決能力・ロジカルシンキング(論理的思考)が乏しい
  • 伝統や慣習は変えるべきではないと思う保守思想
  • 大人の都合(スポンサーや事務所の配慮など)
  • 綺麗事のおかげで自我を保っている(ある意味最大の被害者かも……)


……と、以上の傾向が多いのが分かりますね。

そんな人達への対策は、ネット・SNSであれば「関わらない」。実生活の場合は「適当に流すか、『じゃあ具体案と対策を聞かせてください』と試してみる」が効果的ではないかと提案します。

ネット・SNSの場は「自己主張したいけど意見は許さない」という「言われる覚悟がない人」も少なくなく、議論すらも出来ない平行線で終わるケースが散見されるので、関わるだけ労力と時間の無駄です。結局論点をことごとくずらされて、己の正当性を自己弁護して聞く耳を持ちません。

実生活の場合は適当に流すに加え、「具体案と対策を求める」と書きましたが、大体これを実行すればぐうの音も言えないか、「自分で考えろ」と逃げる形になります。そこから周りには「口だけは達者なトーシロー(素人)」だと嫌われて自滅するだけなので、次第に絵空事は言わなくなるかと。それでもダメならおめでたい人だと、諦めて見捨てるしかないですね。

最後に:綺麗事は無知を露呈して当事者も深く傷つける

綺麗事というのは、その問題に直面して苦しむ人を、さらに追い込んで傷つける無責任な言動でしかない

ネット・SNS・テレビなどで吹聴している人を見る度に感じる思いです。その通り世の中が進めば誰もが幸せでしょうが、そう上手くいかないし、一枚岩ではないのが世の中で、人によってはエゴであり偽善者だと思われる場合もあるでしょう。「綺麗事かもしれませんが〜」という前置きが無ければ尚更です。

もちろん、常日頃から物事をシビアに考えろだとかは言いませんし、モチベーション(理想)という意味で、綺麗事を自身の着火剤として留めているだけであれば、それをとやかく言う権利は誰にもありませんので、語弊の無いよう。

この記事で言っているのは「吹聴する綺麗事は当事者を無責任に傷つけるだけだ」であって、「こうでありたい理想を捨てろ」ではありません。

「理想として思うだけ」か、「それを吹聴する」のか……同じような考え方でも、意味合いは異なってきます。無責任だと指摘され、嫌われるのは言わずもがな、後者ですけどね。

ハードディスクとかファイルの中に、学生時代に描いた絵を見つけるとすごく恥ずかしくなる。よくもまあこんな下手くそな絵で満足していたなぁと。

半年前でも似たような感覚に陥るのに、10年前なんて目も当てられない。ただ今と違って、あの頃は何かに取り憑かれていたように毎日描いていたよ。

絵の技術は上がったけど、パッション(情熱)は昔の方があった。社会人として苦労と経験を重ねて色々冷めたんだろうし、当時は友人達と絵の品評会をしていたのも刺激になってたかも。今はそんな機会めったに無いからねぇ。

絵描き・物書き・Webデザイナー・HTML/CSSコーダーの京都生まれなウサギ好き。ネチケット(ネットマナー)やネット(情報)リテラシーの扱い、批判(建設的意見)と批難(感情的否定)の違いには少々シビアで、性別問わず好きなタイプは、自己反省・研鑽(けんさん)・啓発の努力を惜しまない人。長い文章や理論を分析し、簡潔に分かりやすくまとめるのが得意なため、リアル・ネットを問わず、各所からご好評をいただいております。